TAKAの撮り撮り日紀

 いにしえのお気に入り写真機と新世代のデジ一眼を背負って、ご近所の史跡スポットなど気ままに見て歩き!

磯浜トンネル の解

旧東海道 :第九回目 街道のトンネルに原風景を見た? (石部/磯浜トンネル編) 50年ぶりの再会!の 巻きかもで!
:前編の「石部/磯浜トンネルの謎」は、思わぬ展開をみせ!一気に解けました・・・ 思いがけない出会いに助けられて! 

これが今回の主人公!「旧磯浜トンネル」(現在の石部トンネル)焼津側:小浜坑門です、蒸気機関車の煙で黒くすすけた
坑門の姿は、明治22年の竣工当時とさほど変わっていないようです・・・ 周りが無造作に!柱だらけになった他は・・・
<<画像はクリックすると大きい画像が見られます>>
磯浜小浜坑門

前編の謎の答え:磯浜〜石部トンネルの線路敷道路はアイオン台風の被害での”坑門崩落後も引き続き往来出来た!”
つまり、東海道本線が日本坂トンネルへ移った昭和19年からまた戻ってくる昭和37年までの18年間!旧線の線路敷を
使ったこの道路!「石部坑門の崩落」による通行止め等はなくその後も自由に往来出来た・・・ 当然!筆者も何の問題も
なく通リ抜けられたはず”であった!! なにしろ50年も昔・・・ ここから車で進入して・静岡側へ抜けたのですから

何が謎?や、お話の背景などは恐縮ですが、前編「磯浜トンネルの謎」編を御覧下さい! 問題のトンネルの場所はここ
:現在の名前は東海道本線「石部トンネル」です、地図上では「1本」ですが、上下線が別々で並行して2本あり
ます・・・

竣工当時からの静岡側(石部)と焼津側(小浜)の両坑門は残され、海岸寄沿いにあった、石部と磯浜の坑門は共に廃棄
されました・・・ これをバイパスするルートで、残の部分を約160mほど山側に掘り直さして継ぎ目なしの1本!(複線)と
して、現在も現役で活躍しています。

謎解きのきっかけは、この件であれこれと調べて回っている内に、焼津市の「市史編さん室」に出会った事! 親切な編さ
ん委員の方のアドバイスを皮切りに、次々に有力情報が見つかって・・・

1)写真発見 :焼津市「市制五十周年記念写真集」『やきつべ』(市史編さん室編さん/発行)の中で:磯浜トンネルを出て
疾走する蒸気機関車!:崩壊前の石部トンネル2つの坑門!:磯浜側から見た両トンネル間の風景!:崩壊後の石部の
海側坑門!など・・ 数点の貴重な写真を発見した!! これが決定的な状況資料になりました!

2)重要人物 :発見した写真を頼りに現地を歩き回って、願ってもない人物に遭遇! なんとなんと!当時から現地に
お住いになって居られる方にお会い出来て・・・ 当時の詳しいお話をふんだんに伺う事が出来ました!

1枚目の写真!「磯浜トンネル」を出て疾走する上り列車です! 上の写真と反対側の位置です・・でも撮影はずっと昔で
複線化が完成した、明治44年以降の写真です! 今となっては幻の磯浜トンネルの写真は貴重中の貴重な写真!

(写真集 『やきつべ』より:大崩海岸を走る蒸気機関車:明治末期 萩原昌明氏蔵(写真ハガキより))磯浜トンネルとSL

2枚目は、な・なんと!石部トンネル坑門・・・ もちろん磯浜側です・・ うわっ!ボンネットバスが走っている・・
別の情報でも当時ここを私鉄(静岡鉄道)の路線バスが走っていたはず、ともいう情報もあったので、これはしたり!

これこそ捜し求めた1枚です・・・ 2つ並んだ坑門・・ 後に崩落する海側の坑門もまだ健在!しかも杭柵で通行が遮断
されているのが分る!また山側の上りトンネル坑門だけに「わだち」があって!上り線側だけ”で往来していた事も分る、
後に海側坑門が崩壊してもこれなら往来は続けられたに違いない・・・

(写真集 『やきつべ』より:旧線路敷を走るバス:石田勇氏撮影) ※注 『やきつべ』には昭和30年頃と記載があるが
アイオン台風による海側の坑門崩壊は昭和23年なので、この写真はそれ以前の撮影と推定される。
石部Ton坑口

3枚目はまさに決定打!磯浜トンネルから石部トンネル方向、海岸と護岸堤、鉄道道路?それに山の中腹に民家と
脇を通る県道(静岡-川崎線:現在の国道150号線)”川崎”は榛原の事)が見事に撮影されている!この県道は土砂
崩れで不通になることが多かったという、後ろに県道に続く石部の洞門が、、遠くに日本平も見えるている・・・
このお宅は当時は割烹旅館を・・現在は同じ位置でレストラン&喫茶店を営んでおられます :後にそうとは知らずに偶然
訪問して・・・ 謎が一気に解ける事になる!とは・・つゆ知らず・・・
 
貴重なカラー写真! それまでカラーの定番?彩色写真ではありません! 所蔵されている方のお話では、リバーサル
フィルムで撮ったそうで、この時期では大変難しい技だったそうです、写真機は流行の二眼レフかな? 腕に自信あり!
は明らかに当時のハイアマチュア写真家の撮影です!

(写真集 『やきつべ』より:鉄道敷の道路:昭和29年7月 鎌田茂氏蔵)磯浜Ton付近

4枚目は証拠写真? 昭和23年9月15日のアイオン台風で崩壊、傾いた石部トンネル海側の坑門です! 割れて滑り
落ちてはいるが、この時点では海岸までは落ちてはいません! この状態で一旦は落ち着いた様です、また坑門周囲に
杭柵があるのが見えます、崩壊前の黒い杭柵(枕木?)と崩壊後の新しい杭柵が見えますね、崩壊前から通行止めだっ
た証拠かな? 撮影年月は不明? 崩壊面の石垣が洗われていない点から見て、崩壊直後の撮影か?

(写真集 『やきつべ』より:崩落した東海道本線の旧トンネル:撮影年不明 八木秀也氏蔵)石部崩壊23

同じ場所の現在の姿です!海岸の浸食によって、足元をすくわれ・ 転がり落ちて更に2つに割れた坑門! 崩落の経緯
が良く分りますね!もはや無用の坑門は何が起きてもNewsネタにされず、、気が付いたらこの姿!!なんとも無残な
お姿です!

坑門部分は赤レンガのチューブ状になっていて、背後にもう1段、強固な石垣のバッフルが作られています・・この石垣は
しっかり下の岩盤?まで達していて、この場所の地盤がらみの建設の難しさを物語るのかもしれませんね?波打ち際から
の距離にも注目!すぐそばまで波が来てる!
石部崩壊現場

実は写真を入手したあと・・石部トンネルと磯浜トンネルの間の空間を、どうしてもこの眼で見たくて居てもたってもいられず
切り立った崖の斜面を這い回って現地へ降りる道を探索!・・ 
結局見つからず、疲れはてて汗だくで立ち寄った崖の上の喫茶店!ご主人に訳を話して、上の写真を見てもらったら・・・

あれっ! この家は・・うちだよっ? ありゃー、なんとあの写真に写っていたお宅にたどり着いていた!全くの偶然です、
これには、両方ともびっくり!ご家族までお出ましで、たちまち昔話を! 謎はすぐに・スラスラ、あっさり解けてしまった! 

ご主人に海岸へ降りる獣道を教わって、現地へ入ってまたまたびっくり! 石部トンネルの坑門だけでなく、線路や道路
が通っていた線路敷の平地までが、完全に侵食されて、海岸沿いに続いていた護岸堤の石垣の残骸が浜辺に散乱して
いる・・なんと無残な! 唖然としてしばし静観!
坑口全景

残った下り線の坑門を下から見上げると、これまた哀れ、なんともいたわしく無残なこと言葉もない!! これが・・ 
かって東西の大動脈!文明開化のあの時代をになった、東海道本線のトンネルのなれの果てとは・・ いくつの人生、
どれだけの貨物がここを行きかったことだろうか?・・ あまりにも残酷なお話じゃありませんか?・・勿体無い事です!
石部港口

前編では海上橋側から遠くの現地を見ましたが、今回は逆に現地から海上橋を見ると・・ 一面に崩壊、浸食が進んで
いる事が分ります、崖の上の国道150号線は・・ 大丈夫かなー、、
海上橋側

反対方向の磯浜トンネル側を見ると・・・ 汽車が走っていた平らな土地が磯浜トンネルの坑門横あたりまで(巾100mx
800m位)続いていたはずなのに! 海岸沿いに続いていた、護岸堤の石垣の残骸が浜辺に散乱している、護岸の改修
をして欲しかったなー、私有地にしてしまったので手が入れ難いのかな? ここもなんとも・・無残な事!
磯浜側遠景

磯浜トンネル2つの坑門はこの上の方になる、石部トンネルのそれよりずっと山側へ入っていて残っている護岸堤の向こう
側の上?なのですが・・・ 今は埋められてなくなったと聞いて、いささかがっかり! きっと現存していると思って来て
見たので・・・ でもこちらには赤レンガの残骸はない! 
磯浜トンネルの坑門は崩壊してはいないぞ! 発掘される日がくるといいけどなー!
磯浜坑口

ここが磯浜トンネル坑門のあった場所です、上の写真の護岸堤の山側です、手前に見える線路で出来た柵までが線路敷
だったところ・・ここを右方向にカーブしながら汽車が通っていて? その先に2つの坑門が待っていた・・・ 
と想像するしか手だてがない!

なぜかここだけが私有地になってしまって、しっかり埋め立てられてしまって、坑門はこのあたりの地中に眠っているの
かなー? しかし少し坑門より奥のトンネルの部分は、ずっと先で現役の石部トンネルと合流しているはずなのだが?
いずれにせよ行方不明?・・・ とても残念です、
磯浜坑口上側

前編にある危険な海上ルートでなく、崖を降りる獣道?を伝って、崩落現場に降りることに成功 したものの!なんとまあ
あまりにも無残な現地の実態を見てしまったので・・本編の謎解きとは、直接関係がないのですが・・・

話のターゲット、旧石部トンネルの坑門関連の「特記情報」!として護岸堤等、海岸線の崩壊状態の実態や写真をUPして
おきます。

なお、このページの著作権はページ管理者に帰属します、よって写真を含む一切の転載や、直リンクを堅くお断り致します
ご承知下さい。

但し2枚目〜5枚目まで4枚の写真は、表記の通り、焼津市の市史写真集『やきつべ』からの写真です、著作権は各々の
所蔵者殿に帰属し『やきつべ』の編さん/発行元である焼津市「市史編さん室」殿の管理下にあります、

もちろん当ページでは「市史編さん室」殿、並びに各々の写真の「所蔵者」殿の承諾を頂いて掲載しています。

※最後になって恐縮ですが、お忙しい中で数々の貴重な情報を頂いた焼津市「市史編さん室」の皆様に、この場を借りて、
厚く御礼申し上げます、ご協力をありがとうございました。

また、「市史編さん室」編さん/発行による焼津市「市制五十周年記念写真集」『やきつべ』を、本編の有力な参考文献と
して活用させて頂けた事を、重ねて感謝致します。

なお更に詳しく・・総集編として、本家HPの「ご近所散策」の「街道で出会ったトンネル達」へUPしました、かなり重複し
ますが、視点を変えて・・ どうぞこちらも御覧下さいませ!

  1. 2005/08/15(月) 17:24:26|
  2. 石部磯浜
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磯浜トンネル の謎

旧東海道 :第八回目 街道のトンネルで油売り?(石部/磯浜トンネル編) ほんとうは・・・ ついつい寄り道?の巻き!
:明治22年、焼津〜静岡間に、新しい東海道本線と2本のトンネルが竣工した!

共に新に開業した静岡〜浜松間の静岡と焼津の境に位置していた、静岡側を「石部トンネル」(910m) 焼津側を「磯浜
トンネル」(970m)といい、当初は単線で1本づつであったが、後の明治44年に並列にもう1本づつが竣工して複線化
している。
山側の上り線、海側の下り線、どちらが先に掘削されたのか?は不明です、素人的には山側が先と思えるが?・・・

平成の現在、かっての2つのトンネルは統合さてれ「JR東海の東海道本線石部トンネル」として現役活躍中である、
例によって2つのトンネルの位置はこちらです、現在は両トンネルが通しで1本の「石部トンネル」(地図上は1列ですが
実際は上下線が並行で2列)と言う名前になっています、

写真は現在の東海道本線石部トンネル(旧磯浜トンネル)の焼津側の小浜坑門です、黒くすすけたポータルは、今もなお
昔の蒸気機関車時代のなごりを色濃く残しています、電車のいる右側が下り線です。
東海道線焼津

こちらは「石部トンネル」静岡側の石部坑門です、元の位置はもう少し奥にあったのですが崩れやすかったせいかコンクリ
ート製ポータルで補強延長されている、当時のなごりは石垣だけになってしまった・・・ それにフェンスが設けられて、
立ち入れず、上り線側しか写らないのは残念・・ワイドレンズがない?東海道石部坑門

やむなく少し離れた踏み切りから見ると・・上下線の坑門が見える? なんと3つ目? 真ん中は無関係、右が上り左が
下りです、それにしてもここまで民家が立て込んできて、以前は右に蒸気機関車、左に海岸線が見える絶好の場所だった
のですが・・・
東海道線用宗

おっと話を戻して、ここ静岡〜焼津間は古来からの交通の難所として知られた場所であった、南北いっぱいに400m前後
の山々が連なり、難所と言われた急峻な峠を越えるしか往来するてだてがなかった様だ、

日本武尊も往来したという焼津花沢〜「日本坂峠」〜静岡小坂や、在原業平の鞠子〜宇津ノ谷峠〜岡部の「蔦の細道」
同じく豊臣秀吉の「出世街道(旧東海道)」などの難所の街道が現在も残っている、

2つのトンネルは南の「日本坂峠」の更に南、大崩海岸すれすれの急峻な山を貫いていた、現在は更に海岸よりの断崖
絶壁の上を国道150号線が通っていて車での往来もスイスイである。

古代にはこの道はなく、この地区の人々は潮の満ち引きをみて浜辺を歩いて往来したという、後に切り立った崖の上を縫
うように獣道的な小径ができ、徐々に伸びた後に当目隧道や小浜隧道、石部洞門を作り県道として開通したのは昭和18
年頃の事、後に国道150号線に昇格する

石部トンネルと磯浜トンネルの開口部は僅かに山が切れて、平になっていて距離は800m前後と短かく、両トンネルに
2つずつ並んだ4つの坑口が少し離れて対面する形になっていた、またこの場所は先の国道150号線より僅かに南に出
ていて、海岸線から見上げると、ちょうど道路の下に坑門が顔をだした形になっている、(便宜上石部トンンルの坑門のあ
る側をP1と呼ぶことにします)

遠くから見るとこんな所、中央やや右手に見えるのは国道150号線です、こんなに切り立った断崖の上を通っています、
左手の山の先端でやや平に見える所の突き当たりに2つ、少し手前の右奥に・・ 問題の2つの坑門があった場所です。

ここへは右手の岸壁の先端からテトラポット伝いに行けば・・・ 現場へ行けるのですが、足場と潮が気がかりで、いささか
腰が引けますね・・・帰り道がなくなったり?!崩落現地

振り返って後ろ! 反対側の静岡方面には海上橋があり、たもとの小さな駐車場からここまで歩いて来られます、ここまで
は足元は安泰!スニーカーで大丈夫、そうだお天気が良いと富士山が・・・それにしても素晴らしく切り立った大崩の
山々が覆いかぶさっているのが見えますか!このあたりでは有数の景勝地でもあります・・・崩落現東

さて、ここまでは何の変哲のないトンネルのお話ですが、景色の話はここまでにして、、ここからが、お話の本題?・・・
ここからは、様々な異変が起こります!?

時系列にいきましょう! その前に・・先に言ってしまっては実も蓋もないのですがこの2つのトンネル、古くから交通の
要所に作られた為か、他に例がないほど、、波乱万丈の歴史をたどることになるのですが、まずはご一読を・・・

:新しいトンネルの出現!昭和16年頃に持ち上がった「弾丸列車(標準軌高速幹線鉄道)計画」<なんと海を渡って
北京に至るという壮大な計画だった? これが太平洋戦争中に、実行され、工事が難しいトンネル部分から着手された
昭和18年、早くも先の「石部トンネルの北側」に1本で上下線を収容する「日本坂トンネル」が完成する・・・ 
ところが、戦況の悪化により「弾丸列車計画が頓挫しあえなく中止」されてしまった!出来たばかりの「日本坂トンネル」
は行き場を失って無用のトンネルと化した・・・

同じ頃、すでに50数年を経過し石部/磯浜トンネルにも支障が出始めていた・・貨車が大きくなったせいか、開口が小さく
て大きな貨物が通れないと・・やむなく大きい貨車は中央線を通したりしていたというのだ!
そこで石部/磯浜トンネルを通っていた「東海道本線」の路線を「日本坂トンネル」へ付け替えて通すことになった、
昭和19年のことである。

こうして東海道本線が新しい「日本坂トンネル」へ移った為、元々の「石部トンネル」と「磯浜トンネル」が空いてし
まって、放置されることになった・・・

昭和19年、無用のトンネルとなった「石部/磯浜トンネル」は、以後ローカルの「一般道路に転用」されかろうじて役目を
果たしていた・・・つまり汽車ではなく、人も自転車もオートバイやリヤカー・自動車も自由に往来できたのです!

余談ですが、この頃に地元の私鉄:静岡鉄道によって、空いた石部/磯浜トンネルを活用する計画が持ち上がり、静岡
から焼津経由大井川までの路線が計画され、申請、昭和25年には認可が下りた、
地元の利もあってこの計画の実現性が高かったが、おりしもこの頃に後述の「東海道新幹線」計画が持ち上がってきて、
これの為に東海道本線が出戻りで、遊休中の石部/磯浜トンネルを使う計画になった為・・実現しなかった。

ところが昭和23年9月に来襲したアイオン台風の被害でP1「石部トンネル側の下り線坑門の半分」が大崩海岸へ
崩落してしまいました・・・

後のお話のために、注目したいのは、このとき崩落した坑門は1つだけで、他の3つの坑門は崩落せずに残った!
また橋梁/橋脚はあったのか?なかったのか?有ったとすれば、上下線共通で1脚なのか? いくつが崩落したのか、
などの詳細は不明です、 

実はこの時の被害で「往来が出来なくなったかどうか?」 が、このお話の最大の焦点!なのですが、、 これは後で・・・

昭和37年、懸案の「東海道新幹線」計画が実行され!その専用トンネルは元々弾丸列車用に設計され、開口の大きい
「日本坂トンネル」!を通すことになった、また新幹線ルートの静岡側に新しく同名の石部トンネルと用宗トンネルが竣工
する、、当然ながら!「東海道本線」は「日本坂トンネル」を追い出されて、元のもくあみ? 古巣の石部/磯浜トンネル
へ返り咲く!事になった、

しかし「東海道本線」を石部/磯浜トンネルへ戻すにも、この時すでに「石部トンネル側の下り線坑門の半分」は大崩海岸
へ崩落していた・・・ 昭和23年アイオン台風の被害のまま放置されていたから?
また「石部トンネル」が通っている大崩の山間部は、極めて海岸に近かった為、崩壊したP1以外の部分も海岸侵食が
激しくトンネル本体に危険が及ぶ箇所が多く使用を危惧されていた、

そこで、既に崩落した石部/磯浜トンネルP1部分を廃棄し、ここを回避する形でずっと山よりを通るルートに新たにトンネル
を掘り、両トンネルの良いとこ取りで繋ぎあわせた形に改修した、結果的にトンネルはつなぎ目なしに一本化された、
このとき「磯浜トンネル」と言う名前が消滅する、、同時に先の崩落部分P1はトンネルルート外の無用な位置になって
放置されることになってしまった・・・

ここが問題の崩落部分です・・・大崩海岸でもここだけは、ほんの少しですが山が切れてやや平地?になっていて、石部
/磯浜トンネルの接続部が開口できる地形になっていた・・・ 今も波うちぎわには崩落した残骸がみえる、崩落坑口1
崩落した下り線レンガ積みの坑門?橋脚?です、塊りになった赤レンガはなお哀れ崩落時、そのまま放置され、今日ま
で60年間もここ大崩海岸で波に任せて、なんとも無残な姿をさらしている、無理して近づけば、他の残骸が、また崩れて
残ったトンネルの開口部や山側の原型をとどめる坑門が見られるのですが、今回は安全優先!にて接近せず、そのうち
装備を整えて探検&撮影!・・・ かも、崩落坑口2

ときに「磯浜トンネルの石部側坑門は、崩落していなかったが、同様に廃棄された、トンネルは内部で山側へ掘り直して
いるので、不要となった坑門部分はそのまま残っていたはずなのだが・・・

しかし現在その所在は不明のまま、、位置ははもっと西よりなのかも知れない・・ よそ様が撮られた現地の写真にも写っ
ていない? 現地にあれば恰好の被写体なので撮影されるはずなのだが?存在しないから写せない!のだろうとも思う
のですが・・・

ここのところが何としても謎な部分である、、現地は急峻な大崩の斜面の途中!・・ 長い間にその場で崩壊したか?
埋もれてしまったのかなー?、、 その後の台風などでもニュースにもならない崩壊があったのかも知れない・・・

実は石部/磯浜トンネルが一般道に転用していたこの時期(昭和19年〜37年)に筆者はここを車で通った事が有るので
す!・・・ 今でも鮮明に記憶が残っているのですが、

ここが是が非でも突き止めたい謎!なのですが、この「一般道路転用」のこと自体の記録も見つからず、何処にも情報が
無いのです、もっとも今時、「磯浜トンネル」など知っている人は地元、静岡の石部や焼津の小浜の人でもまれかも?
資料は何処にも無い? いやまだ見つけられないのですが! しかし現に筆者自身が親父に連れられて車で通過してい
るのだから、、
また、一般道転用のことは、地元小浜に出向いて複数の長老からヒヤリングして確かめた!ので間違いないのですが、、

そこで謎なのは、通った時期、当時の筆者の年齢から見て(昭和28年前後)は、あきらかに坑門が崩落(昭和23年)
した後になるはず! それなのになぜ通過できたのか?
・・・ これが筆者にとって長年の謎なのです、、

よく見ると、、崩落したのは海側の石部トンネルの下り線の坑門のみで、上り線の坑門と、推測だが西へ数百メートル離れ
ている磯浜トンネルの上下線坑門は当然、無事に残っていたはずである?!
よって筆者が焼津の小浜側から、磯浜トンネルの上り線転用の道路から進入し、問題の磯浜/石部トンネルの接続点
(崩落部分)で、石部トンネルの上り線転用の道路へ進入出来れば、問題なく通過出来る事になるのだが・・・

この山側(上り線側)の入り口の橋脚は崩落していなかったか?否かが問題?海岸の崩落現場には橋脚らしき残骸?が
あるという、また崩落せづに残っている山側(上り線側)を含めそもそも坑門前に橋脚があるかないか?
よそ様が撮った写真を穴の開くほど観察しても明らかに橋脚が存在する!という確証は得られていません?・・・

仮に橋脚が残っていなかったとすれば、問題の磯浜/石部トンネルの接続点をどのようにして通過出来たのか?推定が
困難です、もっとも重たい蒸気汽車に比べれば、軽い小さな乗用車などは仮設の迂回路でも作っておけば、充分通れて
いた!なら話は簡単だが、、

先の地元でヒヤリングした長老のお話では自転車やリヤカーが通れる程度の小規模な道路・・1本だけだったともいう、、

しかし筆者が現実に車で通過したのだから、、間違いなく通り抜けられる状態だったはず、最も当の乗用車は今の軽自動
車位の車幅しかなかったから・・・
事実から推定すれば、崩落した部分でも道路部分は無傷?か、小被害で、なんらかの補修? 例えば仮設橋等の改修
がされていたはずなのだが・・・

筆者の記憶では、車は父親の運転する初代ダットサン、焼津側の小浜から左に、小高い東海道本線の線路を見ながら東
進、、小浜集落の中央あたりにある「磯浜トンネル坑門」に進入した・・・ 

中は真っ暗で気味悪く、壁面は掘りっぱなしのごつごつした岩肌が続いていた、天井に蒸気機関車のすすが付いていた
か? は記憶がない・・路面は無舗装のでこぼこ道で水溜りだらけだった・・・ 
中間あたりで「海と空」を見たはずなのだが、この部分は記憶がぼやけてはっきり覚えていないです!なんたって7〜10
歳くらいのハナたれ小僧でしたから・・・

トンネルから出た位置は、静岡側、用宗駅近く・・現在の東海道本線の坑門位置、間違いなく赤いレンガ作りの坑門だ
った・・・

なお坑門は1つしか記憶に残っていない、 後に(昭和35年頃?)海側(下り線)の坑門がフェンスで閉鎖されていたのを
覚えている、、
おそらく道路転用していたのは山側の上り線1本だけだったのでは? 下り側は石部トンネル出口部分が崩落しているの
で、通れない? もっとも焼津も用宗側とも坑門は2つ並んで有ったはずだが、、

現在も焼津市役所他の心当たりを回って情報と資料を探査していますが、さっぱり見つかりません、、何処かにあるはず
なのですが・・
 
そこで唐突で誠に恐縮ですが、どなたかこの謎&疑問を解いて頂けないでしょううか? 時期から言って昭和10年前後
のお生まれの方でないとこのトンネルとの接点がないのですが、、

もしご存知の方がおられましたら、断片的で結構ですから、是非コメントの投稿を頂きたいと思います、どうぞコメントへの
書き込みをお願い致します。

追記1!本編は後日の独自調査により謎が解明できました!全容は次編の「磯浜トンネルの解」を参照下さい、この時点
で分らなかった様々な事実の判明や、いくつかの思い違いが発覚しました・・・

追記2!本家HPへ「街道で出会ったトンネル達」総集編としてUPしました。

  1. 2005/08/08(月) 08:08:08|
  2. 石部磯浜
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TAKA

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